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鈴木家文書

16世紀から当家に伝わる葛飾区有形文化財のご紹介です。四巻の内三巻については、葛飾区教育委員会発行「葛飾の文化財」及び葛飾区発行「葛飾区史」に掲載されています。

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1-1「某折紙」天正19年(1591年)霜月15日

某義正が、金町の鈴木右馬助に出した判物である。署名の「義」花押の形式や文の意味から推定すると、里見一族の発給文書と考えられる。万一自分の思い通りに事が進めば、望みに任せて恩賞を与えると書かれている。

『葛飾の文化財』 ・鈴木家文書3点より
(葛飾区教育委員会・平成8年/1996年2月29日発行)

1-2『葛飾区史』における『本田家文書』

 --(略)--

なお正勝は氏政の命を受け、ここに葛西城の在番を仰せ付けられ永禄五年八月十二日以後において旧領太田氏(豹徳軒)の屋形を修築し住んで以来、家正・正次の三代にわたり金町村の通称本田屋敷(金町南口一帯)に住居を構えていたという。正勝は永禄十二年四月十七日死去し法名は紹香(四十歳)葬地は金町村の吉祥院(明治二年廃寺)との説があるが明らかでない。

正勝の子家正は、のち能寿・主膳を名乗り父の跡式を継いだのは永禄十二年五月二十日以後であることは北条家の朱印状で判然としている。天正十年~十八年代の旧金町村の名主(金町六丁目鈴木肇氏所蔵文書)鈴木右馬助に宛てた本田文書三通とは正儀・正純の花押がありなお家正の妻、松平氏が金町の名主に宛てた書状には知行支配に関して殿より私の指示に待てと記している。

なお家正は天正十八年(1590)小田原落城後、徳川氏に仕え文禄元年朝鮮征伐に参加しのち父の領地であった葛西領において450石を下賜され・・・--(略)--

なお鈴木氏所蔵の文書によると元亀・天正のころには金町・曲金(高砂)・小松川の地はすべて本田氏の所領するところであり幕領となったのは寛永年間で以後本田氏は他に移封されたものと推定される。

-- (略) --
 

葛飾区発行 葛飾区史 (432~433ページ)より

第7章   戦国騒乱時代の葛飾周辺
第3節 北条分限帳から見た葛西

本田家文書 (金町・鈴木肇氏所蔵)
(『葛飾の文化財』(葛飾区教育委員会発行)では鈴木家文書として紹介されている)        

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2「某つぼね消息」天正12年(1584年)12月20日

 発給者は不明であるが、印章の下に記された取次役が「つぼね」(局)とあることから、女性が発した文章であることがわかる。内容は金町が奥方の仲居領になったので、これから後は自分へ年貢を納めるように命じている。またこの文書より戦国末期にはすでに「なぬし」と称されていたことがわかる。

『葛飾の文化財』 ・鈴木家文書3点より
(葛飾区教育委員会・平成8年/1996年2月29日発行)

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3「某消息」天正12年(1584年)12月20日

 署名は欠けているが、鈴木右馬助・中谷次郎左衛門らにあてられた女性の発給文書である。この女性は「との」(殿)の奥方であり、殿より金町を不入(諸役の上納免除)にしてもらったので、前々のように横合いがないことを伝えており、もし殿から何かを仰せ付けられても、我が身(奥方)より申しつけていなければ行う必要はないとしている。文章からもわかるように、非常に高位な女性からの文章である。

『葛飾の文化財』 ・鈴木家文書3点より
(葛飾区教育委員会・平成8年/1996年2月29日発行)

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